コールマンを創る人々 第32回 オペレーションズマネジメント本部 サプライチェーンマネジメントグループ 次長 杉本リカ 2017/06/27

杉本リカ

小柄だがエネルギッシュ、明るいけれど落ち着いた雰囲気…。そして言葉に重みがある

西海岸文化に心躍らせた十代

「海を渡ってくる商品って、みんな私の子どもたちみたいなものだもんなぁ…かわいいですよ」。インタビューの終盤、彼女はそう言って、照れくさそうに微笑んだ。こんな愛情の表現があるんだなぁ…と、胸の奥が温かくなった。
豊かな表情とキュートな笑顔。そして、気さくな物言い…杉本リカさんは、とてもチャーミングな人だ。東京生まれの東京育ち。ちょっとした言い回しや所作にも洗練されたスマートさが漂う。とはいえ、1960年代の都内はまだまだ自然豊かで、外遊びを満喫したという。
「弟がいましたからね。一緒にカブトムシを採りに行ったりしました。世田谷といってもまだいたんですよ。団地の砂場にはオケラがいましたし、トカゲを飼ったりしました。花を摘んで色水を作ったり、泥だんごを作ったり…」
 その一方で、さまざまな習い事にも夢中になった。
「小学校の間は、水泳教室や絵画教室、音楽教室、英語教室、代々木ゼミナール 硬式テニス…全部お友達と一緒というのがミソなんですけどね。親に命じられたのではなくて、自分で希望しました。お絵かき教室は、円谷プロの下請けで怪獣の着ぐるみも作っていて、私たちが絵を書いてる横に怪獣がいるわけ。楽しかったなぁ…」。
中学校では球技に打ち込んだという。
「身長が伸びたくてバスケットボールをやってました。伸びませんでしたけど(笑)。補欠の一歩手前くらいだったかな」
 高校では一転、文化的な活動に身を投じる。
「放送部に入ったんですよ。アナウンサー的なことがしたくてね。中学校の頃から、アンプとかスピーカーとか…ステレオ機材をいじるのが好きだったということもありますし。音楽番組を作って、昼休みに放送したり…」
 ファッション、音楽、ファストフード…1970年代は、アメリカのライフスタイルが一気に流れ込んできた時代だ。杉本さんもその洗礼を受け、どっぷりとはまっていく。
「西海岸ロックが流行ったじゃないですか。それで吉祥寺の喫茶店でアルバイトを始めたんですよ。それこそ“ウエストコースト”っていう名前の店で(笑)。そこにいたお兄さんやお姉さんに、アメリカの文化やヘビーデューティーなど当時のファッションを教えてもらいました。音楽の野外フェスに行ったり…BBQなんかもしましたね。初めてサーフィンに連れて行ってもらったのもこの頃です。考えてみたら、その頃のベースが今も続いているような気がします。だって、どこに行きたいかと聞かれたら、今だって西海岸に行きたいですもん。理由ですか?やっぱり、音楽とか、からりとした気候かな…」

ダイビングとの出会いと別れ

高校を卒業すると、さらに刺激的な世界が待っていた。
「大学では、また道を外しちゃったんですね。スキューバダイビングのサークルに入ったんです。勧誘の先輩が目をキラキラさせて話していて、そこで見せられた海中の映像で決めちゃいました。スキューバの知識なんて全然なかったんですけどね」
とはいえ、今のようにレジャーとしてダイビングを楽しむ時代ではない。試行錯誤と前代未聞ばかりのダイビングライフだったという。
「苦労しました。今と違って女性用のギアなんてまったくないんですよ。ウエットスーツだってカラフルなのはなくって、黒だけ。アザラシみたいな姿でした(笑)。ダイバーズウォッチも、日本ではでっかい男物しかないんです。仕方ないからそれを使ってましたが、ある日、アメリカではセイコーの女性用が売られているらしい…という話を聞いたんです。知り合いのツテでどうにか輸入してもらって、今でも持ってますけどね。フィンだって大きくて(女性には)合わないから、フィンストラップで(なんとか)フィットさせたり…」
 しかし、彼女は海洋という未知の世界に魅せられ、生活のほとんどをダイビングが占めるようになっていった。
「サークルの練習がめちゃくちゃハードでした。授業以外、ほとんどの時間をダイビングプールで過ごしてましたし、英語の授業にウエットスーツのまま出て先生に目をつけられたこともありました(笑)。合宿は、沖縄が年に1度、夏に伊豆七島、春と秋は伊豆半島です。それ以外に月に何回か、海洋練習として出かけましたね。365日…ダイビング漬けです。そんな生活が、引退する3年の秋まで続きました」

大学時代の沖縄ダイビング合宿。さて、杉本さんはどこに?(笑)

大学時代の沖縄ダイビング合宿。さて、杉本さんはどこに?(笑)

 そして、ダイビングは彼女に自然の美しさと怖さを教えてくれた。
「好きなのは沖縄ですかね。西表島がきれいでした。海外はハワイとバハカリフォルニアに行きましたが、バハではアザラシの生息地のど真ん中に潜っちゃったんです。襲われそうで怖かった……威嚇してくるんですよ。ものすごい数が泳いでいて、私に向かってきて、ぶつかる直前で直角に曲がって去っていくんです」
 一時はダイビングを生活の糧にしようとまで考えた杉本さんだが、あるアクシデントで断念することになる。
「就職してからもダイビングを続けていたんですね。インストラクターになった友達の手伝いで、土日にツアー参加者のお世話をしていました。実際、アシスタントインストラクターの資格は持ってますしね。ある日、大学の後輩と潜りに行ったんですが、最初は海が静かだったのに、その後いきなり荒れて波が高くなってしまったんです。上がろうと思ったけど海面に出ると大きな波に巻き込まれて……なんとかしようと後輩の手を引っ張ったんですが、私は女性なので体力がなくって……そうしているうちにタンクの空気が少なくなってしまいました。走馬灯のように過去のことが頭に浮かぶんですよ。母の顔とかね。あぁ、(遭難したら)発見されるのは明日の朝かな…と。最終的には偶然、安全なところまで流されて助かったんですが、その時痛感したんです。インストラクターはできないなと。海(の仕事)で生活するのは無理だな…と。人の命を預かる仕事ですからね」

ハワイへの旅立ち。そしてコールマンへ…

 社会人としてのスタートは大手洋酒メーカーのS社だった。
「営業事務ですね。オーダーをとったり営業マンの資料作りをサポートしたり…。大学のゼミが“広告論”で、在学中にコピーライターになろうと思って、2年ほどコピーライター養成講座にも通ってました。で、広告ならS社だろうと(笑)。仕事はすごく楽しかったですね。3年半いたんですけど、みんな明るくて親切で、環境に恵まれてました。社会生活の基礎をすべて学びました」
 しかし、ここでも新たな世界への想いを抑えられなくなっていく。
「ハワイに行ったんですよ。英語を習いたかったのと、アメリカ文化に触れたくて…。“ウエストコースト”で働いていた頃の想いがずっと生き続けていたのかもしれません。本当は本土に行きたかったんですが、予算とかいろいろ考えるとハワイしかなくて。ハワイ大学付属の“N.I.C.E(New Intensive Course in English)”っていう所で、アメリカ文化と英語の授業を受けました。ハワイは肩が凝らない土地ですよね。気候がよくて、人種も多様だし、食べ物は何でもあるし、住むにはいいです。でも、のんびりし過ぎてるんですよ (笑)。季節がひとつでしょ。めりはりがない。ツイードの上着が着たい!とか思っちゃうんですよね。タイツが穿けないな…とか、そういう楽しみがなくて(笑)」
しかし、ハワイの生活は杉本さんを成長させてくれた。
「ひとりで生活する自信がつきましたね。それまでは親と住んでましたが、ハワイでは、新聞広告でアパート探して交渉して契約して、電話を引いて、布団買って…英語でね…。若いから怖いもの知らずだったんですよね」

念願の海外留学。ハワイでの生活はさまざまな自信をつけてくれた。左は先生

念願の海外留学。ハワイでの生活はさまざまな自信をつけてくれた。左は先生

 帰国後いくつかの会社を経て、2002年にコールマンジャパン入社。アイスクリームブランドでの売り上げ予測の業務経験が買われたのだった。コールマンでは、すべてがビッグサイズであることに驚いたと笑う。
「帰国後、ダイビングをやめて山登りを始めたんです。北岳とか奥穂高とか結構高い山も登っていたんですが、コールマンに入ったら“こんなでっかいテント持って山には行けないわ”と(笑)。寝袋だって、それまではいかに軽くして登ろうかと、コンパクトなマミー型を使ってたのに、コールマンのは封筒型でゆったりしてるでしょ」
 彼女が就いたのは、ビジネス規模が拡大するコールマンジャパンが必要とした新規業務だった。
「最初はデマンドプランナーとして、商品の需要予測をしてました。占い師みたいな仕事ですよね(笑)。コールマンジャパンとしては初めて立ち上げた部署だったので、上司と一緒に仕組み作りから始めました。営業と密接にコミュニケーションをとらないとできませんから、結構店頭も見て、競合他社の動向なんかも探り、商品に関する知識も深まりました。その後、サプライチェーン全般を見るようになっていったんです」
 こうして、現在の杉本さんは、コールマンジャパンにおける商品の流れ全体を管理している。
「この仕事はとても幅広いですよ。営業が立てた需要予測をもとに、仕入れ予測を作り、発注して、日本に運ばれてくるものを通関かけて、倉庫に入れる。そしてお客様にいただいた注文に沿って届ける…このプロセスすべての管理が私の仕事です。つまり、物流ということになりますね。もちろん、一人ではできませんから、私のもとに3つのグループがあって従事しています」

商品はすべて私の子ども達

現在、コールマン商品の多くは海外で生産され、日本に運ばれてくる。しかし、国情の違いや、国際情勢の変化によって、予測不可能な事態が生じることも珍しくない。そういったアクシデントに影響されないよう、物流をコントロールすることが彼女に求められる。
「サプライヤーの大部分がアジアなんですが、たとえば、国際会議があって、急きょ大気をきれいにしよう!なんて、政府命令で工場の稼働が止められちゃったりするんです。そうなると商品の納期が影響を受けますからね。そういう可能性が生まれたら、計画を前倒しするとかいろいろ手を打ちます。胃が痛いですよ(笑)。また、旧正月になると工員がみんな田舎に帰ってしまい、前後1ヵ月はほとんど工場に人がいなくなる。操業が止まっちゃうんです。休みが終わっても工員が戻ってこない…なんてことも日常茶飯事ですからね」
 笑みをたたえながら話す杉本さんだが、その心労は察するに余りある。いつものショップにいつもの商品がいつものように並んでいる…そんな当たり前の光景は、決して当たり前でなく、そのために日々地道な努力を続ける人々がいたのだ。
「何かトラブルがあって予定通り入らないかもしれない商品がきちんと届けられ、お店に並んだ時は満足感と喜びを覚えますね。東北の大震災で節電になって、みんなが電気のランタンを欲しがったんですが、発注しても発注しても売れちゃって、品物が足りなくなったんです。本当に苦労して何とか皆さんに届けられた時には、心からホッとしました」

東日本大震災時に活躍し、注文が殺到した初代のクアッドLEDランタン。苦労して調達した

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いつものように、夢は?と問いかけてみると、目を閉じた長い沈黙の後、ゆっくりと静かに語り始めた。
「コールマンの一員としての夢…………いろんなことが頭を過っちゃうなぁ…。私はやっぱり、お店でウチの商品がお客さんの手に取りやすいようにきれいに並んでいるのが嬉しいなぁ。海を渡ってくる商品って、みんな私の子どもたちみたいなものだもんなぁ…かわいいですよ。だから、何か理由があって戻ってくると悲しくなっちゃいます。そうですねぇ…子どもなんですよ。
物流の管理という立場上、私は商品をメーカー目線ではなくて、ユーザー目線で見ますからね。これからもずっとユーザーの立ち位置での商品開発や販売を続けてほしいなぁ…。そして、広島みたいなコンセプトショップが増えて、コアなユーザーだけではなく、一般の方にもコールマンの魅力をもっともっと伝えられたらいいなぁ…と思います」
 今、私の手元には新旧さまざまなコールマン製品がある。そのいくつかは、間違いなく杉本さんの苦労のたまもの…いや、子ども達だ。週末、久しぶりにずらりと並べ、手入れをしながら“お母さん”の近況を伝えてみようと思う。

所属部署のキャンプ研修のワンシーン。商品に触れる機会を作り、キャンプを通じてチームワークを創り上げる

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