リチャード・L・ギルフォイル

前・代表取締役社長 (現・顧問)

リチャード・L・ギルフォイル

15年に渡り社長としてコールマンジャパンを牽引してきたリチャード・L・ギルフォイルさん。ミッドタウンや神宮外苑、大阪で手掛けた都市型イベントは、これまで接点のなかった多くの人々にコールマンというブランドの存在を伝える大きな機会となった。その盛況にはギルフォイルさん自身も驚いたという。「みんなの滞在時間が長かったでしょ。楽しんでもらったという証拠だよね。本当にうれしかった...」

コールマンジャパンを牽引してきた15年

優しい笑顔、柔らかな語り口、誰にでも声をかける人懐っこさ...アウトドアリゾートパークやCOCミーティングでよく見かけたその姿は、コールマンジャパンのひとつの象徴だった。

リチャード・L・ギルフォイルさんは、この11月、2000年の就任以来15年に渡り同社を牽引してきたそのキャリアの幕を下ろした。その退任に、日本のアウトドアシーンは震撼し、多くのファンが驚いた。

「もう6年以上、月の半分は飛行機に乗る生活でしょ。家内にもずいぶん迷惑かけたし、歳とって自分も疲れるようになったしね。でも、決断は難しかった。頭の中にあったのはCOCのメンバーと社員の顔だったの。辛いよ。私にとってはね。でも、やめるタイミングってあると思う。ここで一歩進まなきゃ何も変わらないし...。今、私がやらなくてはいけないのは、このあと、みんながやりやすいスペースを作ること。私の影を置いちゃいけない。その意味でもアメリカに帰るのはいいことなんだよね。

それに、これで縁が切れるわけではないしね。この前、社内のワインクラブのメンバーにアメリカでの名刺を渡して“来てくれたら自宅のワインセラーのパスワードも教えてあげるよ”って言ったの(笑)。この前、COCのイベントに行ったときにも“今後はお客さんとして来てくれませんか?”ってメンバーに言われちゃってね」

満面の笑顔とあの柔らかな口調で最後のインタビューは始まった。

67年の人生で、38年の日本生活

出身はアメリカ合衆国のワシントンDC。1歳で両親と共に来日、以来、日本での生活は計38年にのぼるという。

「1948年...昭和23年2月28日生まれ...ねずみです」。西暦と和暦を瞬時に換算し、干支をすらりと口にした。この国への想いや愛着が垣間見える。

「それで日本に2年いてからアメリカに戻って、8歳のときにまた日本に...。2年いてまたアメリカに戻ったの。14歳のときにまた日本に来て東京にあったインターナショナルスクールに入り、卒業後、アメリカの大学に進学したんです」

子ども時代の遊びは、めんこ、ビー玉、野球、バスケットボール。日本の少年たちと少しも変わらない放課後を過ごした。キャンプとの出会いは小学校4年生で始めたボーイスカウト活動だったという。

「最初はカブスカウトから。まじめにやってたよ。14歳までかな。宿題を一生懸命やって、バッジをできるだけもらうの。そうしてユニフォームが青からブラウンになって届いたときの喜び...ね。忘れられないよ」

多感な高校時代を過ごしたのも日本。世の中は高度経済成長時代で、ギルフォイルさんも刺激的な青春を送ることになる。

「高校時代は、テレビで力道山を見て、エレキ合戦を見て...。ヒルトンホテルで開いた高校最後のダンスパーティにスパイダーズに来てもらった。私たちは全員彼女を連れて...。目の前に人気絶頂のバンドが来たんだからびっくりしたね。音楽は大好きで、ビーチボーイズとかベンチャーズとかアルバムをたくさん持ってたよ」

勉強では生来の負けず嫌いが功を奏した。

「でも勉強は一生懸命でしたよ。物理と歴史が好きだった。私の場合、アメリカから戻ってきたとき、同じ歳の人達は数学、ラテン語、フランス語を2年分多く学んでいたんです。それで1学年下のクラスを薦められたのね。でも、“いやだ!”って言って猛勉強した。最初の1年間は毎週末塾に行って勉強したの。学校で試験の順位が発表になるんだけど、当然、はじめの2回はビリ。でも、次の学年に進級する頃にはベスト3に入ってたね」

しかし、社会も文化も異なるふたつの国を行き来する少年時代...戸惑いはなかったのだろうか。

「子どもの頃は、生活していてアメリカと日本の違いを感じることがなかったね。でも、14歳で日本に来たときはすごかった。うちは男4人の兄弟なんだけど...家の前にやたら女学生が集まってたのよ。毎日、駅に向かうときにもいたし。追っかけられてね。道端から“あの部屋にいる!”なんて騒がれて(笑)。やっぱり外国人だから興味あるんだろうなぁ...って思いましたね。それくらいかなぁ...」

世界観を180度変えた人生初の挫折

「大学時代はあまりスポーツはせずにビールばかり飲んでた。私の頃はね...若者は軍隊に行くのが当たり前だと思っていたんですよ。ベトナム戦争の真っ最中だったしね。だから入学して最初の2年間は、そうしようと思っていたのね。大学でそのコースに入って、毎週勉強したり、練習したりしていたんです。3年になったら国と契約書を交わして兵隊になろうと...。でも、身体検査に落ちちゃったの。なぜかっていうとね...子供のころ、喘息もちだったことを正直に書いちゃったから。その頃にはもう治ってたんだけどね。それで、自分の行くべき道が分からなくなった。突然、夢が消えちゃった......」

そして、ギルフォイルさんの世界観は180度変わっていく。

「ジミー・ヘンドリックスの世界や、ヒッピーのジェネレーションにハマったりして。ロングヘアになって、反政府デモとかね...。今から思えば青春だったね」

やがて卒業。次に予定していたワシントン大学大学院への入学まで半年空いてしまったため、親の待つ日本へ戻ることになったのだが、それが彼の運命を大きく変えていくことになる。

「親がびっくりしたのね。“これ、私の息子?”って...(笑)。姿が一変してたから。長髪でジョン・レノンみたいなサングラスでしょ?で、ある日、写真家としても活躍していたモデルの友人が、私を撮ってくれたんです。どの写真も素晴らしくて、みんな180cmくらいのいい男に映ってる(笑)。彼の奥さんが、私の今の奥さんの同級生だったんだけど、それで私の写真を見たみたい。彼女から電話がかかってきたんです」

その出会いから4ヵ月後ふたりは婚約する。そして、ギルフォイルさんは大学院進学をやめ、就職を決意したのだった。

ノンキャンピング分野への進出を決意

こうして広告代理店に入社。市場調査やTVコマーシャルの企画、商品開発などに奮闘する日々を送ることになる。しかし、提案やレポートではなく自分で決断することができるメーカー側で働きたいと、化粧品会社に転職。単身アメリカに渡って5週間で訪ねた60社のうちの1社だった。

「今でも思う。もしあの時決断して動いていなければ、まだ代理店にいたかホームレスになってた(笑)。やっぱり思ったことはチャレンジしなければ、夢は追いかけなければ、向こうからは来ない...それはいつも子供に言っているの」

その後、男性用ひげ剃りのメーカーに11年勤務し、マネージメントの才能を開花させていく。そして2000年。1本の電話がコールマンジャパンとの縁をつなぐことになる。経営の手腕を買われ、同社社長として招聘されたのである。

しかし、当時は空前のキャンプブームが終わった直後。コールマンを取り巻く状況は厳しかったという。

「でも、どん底から立て直すっていうのも楽しかったよ。当時、調べてみたら日本の14歳から59歳の6%しかキャンプ経験がなかったの。でも、未経験の7割は行ってみたい...っていうわけ。なぜ行かないの?って調べると、クルマがない、金がない、時間がない、友達がいない...ないない尽くしだったのね。でも、お金がないといってもあげるわけにはいかないし、クルマがないといってもプレゼントするわけにもいかない。会社として手が打ちにくいよね」

そこで、ギルフォイルさんが目をつけたのは、ノンキャンピングと呼ばれる、トレッキングやBBQ,ビーチの分野だった。コールマン本来のコンセプトからは大きく外れず、蓄えたノウハウや経験を活かすことができるからだ。

「最初は反対もあったけどね(笑)。結果としてはその後の生命線につながっていったし、ブランドの付加価値も大きく高めてくれた。キャンプ用品の売り上げもそれに引っ張られて増えていった...」

15年間心掛けたオープンなコミュニケーション

こうして業績は回復し、韓国や中国などアジア各国もコールマンジャパンが手掛けるようになっていくのだが、この15年間、リーダーとして常に心掛けてきたことがあったという。

「入った時から今日まで社員とのコミュニケーションをオープンにしてきたこと。一緒にランチをとったりして...。それってとても大事なことだと思うのね。何か問題や課題があって、指示を出しても、それに対するリアクションは社員ひとりひとり違うでしょう。真意を伝え、理解してもらうには、自分から出て行かないとダメ。でも、それを続けられたのは、本音で応えてくれた社員がいたからだと思う」

さて、キャンプの本場である欧米と日本のキャンプシーンを比べたとき、彼の目にはどう映るのだろうか...。

「日本のほうがいいなぁ...って思うことはたくさんある。それを今、中国や韓国、台湾で活かしてるの。日本のキャンプって、とにかくカンファタブル(快適)でしょ。楽で心地いいキャンプ。イスからテーブルから寝るところから、ぜんぶ楽。アメリカのキャンプはもうちょっとラフなんですよ。日本では、そこで作る料理もハンパじゃない(笑)。ダッチオーブンの使い方だって年々進化してる。すごいよ。アメリカじゃ考えられない。日本のキャンプでよくないことは...ない。ないです。ほかの国では目につくけどね」

徹底した現場主義に隠された想いとは...

さて、ギルフォイルさんを語る上でもうひとつ忘れてはならないことがある。それは、イベントなど、さまざまな“現場”へ積極的に出向くということだ。思いがけず言葉を交わした方も多いだろう。

「自分の性格なんだよね。誰かに教わったとかビジネス書を読んだとかじゃない。一般ユーザーの声を聴かなければ、何が足りないのか、抜けているのか、喜んでいるのかいないのか...分からないでしょ。それが聞けないのってさびしいと思うよ。韓国に進出した最初の頃、キャンプ場でユーザーと語り合って、びっくりしたことがあったの。向こうのヘビーキャンパーって年に30回とか平気でやっちゃうんだけど、絶対に天気予報見ない(笑)。つまり、どんな状況でも出かけて、耐えちゃうわけ。話してみて、彼らはまったく違うレベルの耐久性を求めてくるってことが分かったのね」

この現場主義が、彼にたくさんの素晴らしい思い出をもたらすことにもなった。

「去年、京都でやったイベントでも、少年が走り寄ってきてね。14歳って言ってたかな。自分で一生懸命溜めたお小遣いとお年玉で買ったテントを、親とは離れた所に張ってたの。そこでひとりで寝泊まりしてる姿を私に見てほしかったんだと思う。そして、“社長さん、お願いだからテントにサインして!”って。そのときの私の幸せな気持ち...わかる?一生忘れないよ。机に座ってたらこんな素敵なことないよね。

韓国でもね、ユーザーの奥さんが来て“コールマン・サランヘヨ”って言うのよ。I LOVE COLEMANってこと。理由を聞くと、キャンプに行くまではご主人が週末しか家にいなくて、家族は二の次...でも、キャンプを始めたら、家族愛でいっぱいになって(笑)。そのご主人も一升瓶を持ってきて“あんたのおかげで離婚しなくてすんだよ”って。現場に行かなきゃ、そんな話聞けないでしょ?」

心の支えだったCOCの存在

ここで、「15年を振り返って心に残っていることは?」という少し意地悪な質問をしてみた。たくさんあって、簡単に絞りきれるものではないだろうと思ったのだけれど...ギルフォイルさんは即答した。

「COC......COCの存在ですね。2万人近くいるわけだからね。これだけの熱心なファンに支えられている会社ってそうないよ。イベントなどでメンバーに会うと、こんなにコールマンを愛してくれている...って、感動する。だから、コールマンとして彼らにもっともっといろいろなことをしてあげたい...って思います。

あとは、コールマンジャパンが抱えている人材。みんなコールマンが大好きで仕事を頑張ってる。本当に熱心に自分の役割を果たそうとして、100%真剣に頑張ってる。それはすごいことだよ。うちは人材に恵まれているよねぇ......。これだけいい仕事をする人が揃っていなければ現在はない。最初のミッドタウン(後のアウトドアリゾートパーク)がいい例だと思う。あんなに狭い場所で、あれだけのいろいろなことができてしまう、楽しめてしまう...それをコールマンができたということはプライドを持てるでしょ。すごく感動したよ。宣伝もしてないのに、1回めであんなにたくさんの人が来て、みんな楽しんでくれて...」。そう語る彼の目は心なしか潤んでいた。

次の目標は孫とのアウトドアライフと料理教室

「コールマンには、今持っているスピリッツを変わらずに持ち続けてほしいよね。家族で楽しめる、友達と一緒にひとときを過ごせる商品をコールマンが提供する...そういうシーンはずっと変わっちゃいけないのよ。でも、6%の原理はまだ残っているし、若い人たちにもっともっと愛してもらえるようにならなければいけない。そして強い会社であってほしいと思います」

まもなく、日本での生活にピリオドを打ち、アメリカ合衆国のオレゴンで新たな生活がスタートする。ビジネスマンの激務を離れ、家庭に戻っていくのである。

「まず、運動してダイエットしたい(笑)。オレゴンはとてもアウトドアの盛んな場所なので、孫といろいろ楽しみたいと思ってます。カヤックしたり、トレッキングしたり、スタンドアップパドルボートにも挑戦したいし...。あとね、料理学校に行きます。女房に44年分のお返しをしたいの。とにかく運動して、旅行して、頭を常に回転させておきたいね。そして、コールマンファンの皆さん...商品を愛用していただいて本当にありがたく思っています。みなさんの周りの人にもこの楽しさを伝えてほしいです。長い間、ありがとうございました」

2013年、六本木のミッドタウンで開催された「アウトドアリゾートをつくろう」の初日。日も沈まないうちにひとり会場を後にする彼の姿があった。声を掛けると「このままいたら、泣くところを見られちゃうよ。みんなほんとに頑張ったね」。その目はすでに潤んでいたのだけれど、軽く握手すると静かに去っていった。

この国の先人たちは、「美徳」という言葉を大切にしてきた。負けず嫌いで涙もろい情熱家...地道に努力し、日本のキャンプシーンを駆け抜けた彼の後ろ姿には、この二文字が似合うような気がする。

See yo......いや、また会いましょう!

取材と文
取材と文

三浦修

みうらしゅう

コールマンアドバイザー。日本大学農獣医学部卒。つり人社に入社後、月刊 Basser編集長、月刊つり人編集長を経て、2008年に広告制作、出版編集、企画、スタイリングなどを手がける株式会社三浦事務所設立。自称「日本一ぐうたらなキャンプ愛好家」。

1960年生まれ。千葉県市川市在住

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