加賀美明仁

プロダクトセンター アフターサービスグループ 係長

加賀美明仁
コールマンジャパン初となるアウトレットの開設に汗を流した日々を懐かしそうに語る加賀美さん

現在、全国に展開するコールマンの直営店/アウトレットは10店舗。お買得品や、廃盤となったモデルを手に入れるチャンスだけではなく、コールマンのスタッフと直にコミュニケーションできる空間としても人気を博してきた。

今回、お話を伺ったのは、そんなアウトレットへ並べる商品を管理する加賀美明仁さん。第21回に登場していただいた福島多加人さんと同じく、勤務先は流山のプロダクトセンターだが、コールマン流山ショップを併設しているので、訪ねたことのある方も多いだろう。

伝説のアウトレットを支えたひとり

実は、ここからそう遠くない松戸市の一角に、往年のコールマンファンの間で今なお語り継がれる伝説の施設があった。「松戸プロダクトセンター」だ。

当初、商品の集積地としてオープンしたが、後にコールマンジャパン初のアウトレットが併設されたことで、ファンの話題をさらうようになる。床がきしむような小さなプレハブの建物に、再生したB級品やカタログから外れた旧モデルが山のように積まれていたからだ。倉庫の隅に眠っていた、コレクターも息を呑むような商品がさりげなく置かれていたり、修理もその場で対応したり...という前代未聞の夢の空間。関東近県のマニアの間では「松戸に行った?」が合言葉になり、関西など遠方からも訪れるファンも少なくなかった。

それを立ち上げ、推進していったのが第27回に登場した杉野泰之さんだが、そのもとで開設に汗を流したのが、加賀美明仁さんだ。まさに、アウトレットの歩みを知るひとりである。

お気に入りは「ムーンチェア」。かつての人気商品だが、彼にとって、リラックスできるかけがえのないパートナーだとか...
お気に入りは「ムーンチェア」。かつての人気商品だが、彼にとって、リラックスできるかけがえのないパートナーだとか...

プロを目指したテニススクール時代

加賀美さんは、1971年東京都三鷹市生まれ。八王子市で小中学校時代を過ごし、以後松戸市で生活している。八王子ではアウトドアが日常だったと笑った。

「八王子の家は山の上だったんですよ。本当に山の上(笑)。だからほとんど山で遊んでいました。東京といっても天候が全然違うんです。冬に雪が積もると、リフトのないスキー場みたいなもの。そこでソリをやったり...夏はカブトムシ採りとかね。親父は釣りが好きでしたが、思い出にあるのは沢遊びですね。父の実家が千葉県の市原だったので、近くの山の沢で...。養老渓谷でキャンプも楽しみました」

実は、テニススクールに通い、プロのプレーヤーを目指したという意外な顔も......。

「小学校からテニスをやってました。兄貴のラケットで壁打ちをやったのがきっかけで、テニススクールにも入ったんですよ。スクールっていうと、松岡修造さんが有名ですが、彼のは桜田倶楽部で、自分は横浜のイラコテニスカレッジに通っていたんです。プロの養成所みたいな感じで、神尾米選手や吉田友佳選手もいましたね。高校時代もテニスで...部活でちょこっとやったら、あとはほぼ毎日スクールに...。でも、高2の春頃から乱視がひどくなっちゃって、辞めました。最初変だな...って思ったんですよ。ナイターで打つのが辛くなっちゃったんです。なんだかボールがブレるなぁ...って感じてたんですが、そのうち、(ラケットの)芯に当たらなくなりました。それまで勝てた人間にも勝てなくなり、入ってたところに入らなくなって......」

やがて、高校の修学旅行がきっかけで、海に興味を抱くようになる。

「実は高校三年生の修学旅行で沖縄に行ったんですが、その時生まれて初めて、海ってきれいだなぁ...って感動したんです。それで、横須賀にあったダイビング関係の専門学校に進みました。私は海洋科学専攻で、ダイビングを選ぶとインストラクターを経てダイビングショップ勤務の道が開けるわけです。在学中、80本以上潜ってて、インストラクターの一歩手前までの資格も全部取ってたんですけどね...結局、断念しました。実習で働いていたショップで、風邪を引いていたのに無理して潜りまして...。水面に戻るときに耳抜きができなくなっちゃったんです。タンクのエアはどんどん減って...もう危ない!ってところで無理して上がったらひどい頭痛が一か月くらい続きまして...ダイビングは自分には無理だなと。命に関わることですからね」

専門学校で知ったマリンスポーツの楽しさは彼の人生を大きく変えた。ウインドサーフィンは現在も生活の一部だ
専門学校で知ったマリンスポーツの楽しさは彼の人生を大きく変えた。ウインドサーフィンは現在も生活の一部だ

ダイビングをあきらめた加賀美さんは、その学校で出会ったウインドサーフィンに活路を見出した。

「そこでは他のマリンスポーツ、ヨットもカヌーも、ウインドサーフィンもカヤックも...みんなやったんです。つまり、今の私の原型はほぼここで作られたようなもので、卒業後就職したのは、ウインドサーフィンの卸をやってる会社でした」

ちなみに、ウインドサーフィンは、釣りと共に今もなお、彼の生活の大切な一部となっている。

若くして海の魅力に取りつかれた加賀美さんは、釣りにものめりこむことに...東京湾のシーバスはもちろん、沖の大ものも...
若くして海の魅力に取りつかれた加賀美さんは、釣りにものめりこむことに...東京湾のシーバスはもちろん、沖の大ものも...

松戸プロダクトセンターの誕生

やがて、加賀美さんの目に入ったのが、地元松戸市でのコールマンの求人。松戸プロダクトセンター立ち上げのスタッフ募集だったのである。

「杉野さん達がセンターの設立のためにアルバイトを募集していたんです。当時はまだショップがなかったので修理担当で採用され、2年くらい“濃い”修理業務をやらせてもらいました。それが、後にショップでとても役に立ちましたね。修理のノウハウを身につけて店頭に立てたので、接客の武器になったんです。あの頃はその場で直すっていうのが使命で、修理センターがすぐ横にあったのも強みになりました」

そして、コールマンジャパン初となるアウトレットの設立へ...。

「で、ショップを始めることになって、杉野さんに“お前やる?”って言われ、やらせてもらうことにしました」

前例のないアウトレット業務はすべてが新鮮だった。もちろん、それは予期しないトラブルと課題の連続でもあり、彼はすべてのエネルギーを注いで解決に当たったのである。「ドタバタの毎日ですよ。ず~っとドタバタ(笑)。怒涛のように時間が過ぎていきました。すべてが初めての経験だから逆に言えば自由なんですよ。辛かったですけど、でも、最高に楽しかったですね。POSレジもないし、すべて現金扱い。値札もないから、品物ひとつひとつにタグをつけるんです。ほんと、アナログな世界でした」

松戸におもしろいショップがある......やがて、ファンの間にそんな噂が広がり始めた。コールマンマニアを自称する人々はみな足を運び、夢の空間に酔ったのだった。

「年々、ものすごい勢いで売り上げが伸びていきました。そのあたりになると、販売のノウハウも固まってきまして。最初の頃は、平日に再生した商品を準備して出しておいて、週末ですっからかん...の繰り返しでした。そうしたら週明けにまた、当時“宝の山”と呼んでいた返品倉庫に行ってB級品を再生して、週末向けの準備をするんです。でも、売り上げ目標額が上がってくると平日にもある程度売る必要が出てきます。で、みんなで考えて、方法を少し変えようと...。セールなんてどうだろうか?ってやってみると、それがまた売れる、売れる(笑)」

掘り出し物を捜すのが楽しみで来店するファンのために、展示方法も変えていったという。

「当時は、いろんなところから引き取ってきたカタログ未掲載品等もたくさんあったんです。今ならマニア垂涎のパーツも店頭に出してましたし、ありとあらゆる古い物を捜し出してきては並べてました。だから、宝捜し的な感覚で来るお客様も増えてきたんですね。それで、売り方も少し変えることにしました。店内の商品配置も、わざと陳列台の陰とか、物陰などに面白そうな商品を...とか(笑)。本当に狭いプレハブの店でしたけど、そういう仕掛けをいっぱいして、楽しんでもらおうと心掛けていました。だから夢中になって夜11時くらいまで平気で仕事してましたね。お客様が“こんなところにあった!”なんて喜んでくださると本当に幸せでした...」

伝説の松戸ショップ。限られたスペースだったが、加賀美さんの情熱が注ぎ込まれていた
伝説の松戸ショップ。限られたスペースだったが、加賀美さんの情熱が注ぎ込まれていた

仲間たちへの想いが込められた流山プロダクトセンター

前出のとおり、現在の加賀美さんは再生業務の管理を担っている。

「流山プロダクトセンターの業務は修理とマーケティングの備品管理、そして再生業務です。今年から、クレームや商品問い合わせに対応するカスタマーサービスも一緒になりました。再生部門では、本社からの指示を受けて各店に再生品を発送していますが、私はその全体の管理ですね。入荷時に不具合のあったものや、返品されたもの...そういった商品を無駄にしないために、調整したり修理したりして販売します。企業としてもECOは重要です。一つでも多くの物を捨てるのではなく生き返す事も使命だと思っています。」

さて、加賀美さんはこの流山PCの誕生自体にも深く関わっている。いや、生みの親と言っていいのかもしれない。松戸プロダクトセンターの移転に尽力したのが彼だったからだ。

「旧松戸プロダクトセンターからショップが切り離され、樋野口に移った頃から新たなセンター候補地を探す業務に取り組んではいたんです。しかし、早急に探さなくてはならない事情が生じまして...いわば特攻隊長のようなものです。いろいろと物件を回りまくり、あの頃の生活はほぼ不動産屋みたいなものでしたね(笑)。

でも、なかなか条件に合うのがないんですよねぇ。早く決めないと従業員は路頭に迷っちゃうわけじゃないですか...見つかったとしてもそれまでの場所からあまりに遠ければ、通うことが難しくなって仕事を続けてもらうことができないし...もちろん、予算っていうものもあるわけです。とはいえ、どうせ新たに始めるなら、もう一度PCとショップを一緒にしたいと強く願っていました。なぜなら、ピンチの時にはお互いにフォローしたり...と柔軟に対応できるからです」

こうして、2013年春、彼の想いのこもった新プロダクトセンター&ショップが誕生した。あの往年の松戸プロダクトセンターが流山の地で甦ったのである。

ここを訪ねる度、21回の記事中で触れたある朝の心打つシーンが甦る。それは、到着した巨大トレーラーから荷卸しするスタッフの姿だった。女性も含めた6,7名が実に迅速に作業を進める。しかし、雰囲気はとても和やかで笑顔が絶えない。誤解を恐れずに言えば、高校の文化祭のような明るさで、しかし、正確でていねいなプロの仕事が進んでいく。女性がちょっと重そうな荷物に近づけば男性スタッフがサッと歩み出て無言で代わった。見ていてとても清々しい気持ちになる素晴らしいチームワークだった。彼が苦心の末、生み出した流山プロダクトセンターでは、今、そんな日々が繰り返されている。

加賀美さんにとって、仕事とは人との出会いや触れ合いも意味している。プロダクトセンターでの日々は、まさにその積み重ねといえるだろう。

「人間が好きなんですよ。とにかくどの職場にいても、人が好きだし気になって仕方がない。みんなそれぞれ個性があって、どう付き合おうとか、どう引き出そう...掘り出そう...そういうことに気がいきます。ショップの頃も、いつの間にかお客さんの中に入り込んじゃってましたね」

その言葉に偽りはない。たとえば、流山プロダクトセンター設立に走り回っていた頃、彼の胸の中にあったのはスタッフと共に迎える新たなスタートだったという。

「自分の使命は、予算などの条件を満たした上で、それまでのスタッフも希望すれば100%移ることができて...ショップの機能や倉庫の規模を兼ね備えた場所を捜すことでした。とにかくひとりも欠かさず移りたかったんです。だから、今も夢といえば......ここにいるみんなが笑顔でいられる環境が続けばいいかな...と思ってますね」

あの朝、目にした抜群のチームワークと和やかな空気...それは、加賀美さんが何よりも大切にする人と人の絆が生み出したものだったのである。

取材と文
取材と文

三浦修

みうらしゅう

コールマンアドバイザー。日本大学農獣医学部卒。つり人社に入社後、月刊 Basser編集長、月刊つり人編集長を経て、2008年に広告制作、出版編集、企画、スタイリングなどを手がける株式会社三浦事務所設立。自称「日本一ぐうたらなキャンプ愛好家」。

1960年生まれ。千葉県市川市在住

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