新井孝俊

マーケティング本部 シニアプロダクトマネージャー

新井孝俊
新井さんは昭和44年、千葉県鎌ケ谷市生まれ。小学校2年で東京都祖師谷に引っ越したが、「東京は街がきれいだな…」と思ったのだとか

新井さんの噂はコールマンのスタッフから何度か耳にしていた。曰く…

「彼はホームランバッターなんです。じっくり待って、打てばスタンドイン…」。

しかし、インタビューの場に現れたその“強打者”は意外に照れ屋だった。物静かで慎重に言葉を選びながら、自らの受け答えに照れ笑いしたりする…。

やがて、徐々に見えてきたのはクールでありながら熱く燃える戦略家の顔だった。

噂のホームランバッター

千葉県鎌ケ谷市で生まれた新井さんは、至近だった手賀沼でザリガニなどと遊ぶ子どもだったという。

「中学高校はアウトドアっぽいことをしてませんでした。特に趣味はなかったんですが、バイクが好きで乗り回してました。旅するバイクじゃなくって、純粋に走ることが好きでしたので、同じ道を何度も走るんです。バイクをいじってみると、速くなったり遅くなったりしますから、それを楽しむのも楽しかったですね。釣りもやったんですけど、あんまり釣れなかったんで“これは費用対効果が悪いなぁ”とやめました」。

やがて、大学の経営学部に進んだ新井さんはキャンプとの出会いを果たすことになる。が、その前に進学の背景を…。

「もともと個人の貿易商になりたかったんですよ。海外からいろいろな物を輸入して売るという。経営学部に進んだのもそれが理由なんですけどね。日本はまだまだグローバルじゃなかったので、アメリカとかヨーロッパの物はレアで、新鮮だったんです。そういう物に関わる仕事って、なんだかすごいことをしてるような感じがしました。

自分がこりゃ売れる!と思ったものを持ってきて実際に売れたら楽しいだろうし、個人だったら全部自分で考えてできるわけじゃないですか。その頃、日本では見ないようなアイデア商品がたくさんあって、それが紹介されている雑誌を眺めながら、こんな気の利いたものを日本で流行らせたらおもしろいだろうな…なんて想像していました」。

貿易の仕事に就きたいと考えた新井さんは見聞を広め、英語を身につけるため、休学してカナダへ向かった。

「カナダならバンクーバーかトロントだろうって言われていたんですけど、バンクーバーは日本人が多かったんですね。英語を覚えるなら少ない場所がいいだろうってトロントを選びました。ワーキングホリデイなら、お金がなくても大丈夫だろうと思ったんですけどね…ちょっとあてが外れました。当時、日本はバブルで仕事なんていくらでもあったんです。カナダに行っても同じだろうと軽い気持ちで出かけたんですが、着いてみると仕事がなんにもなくって。聞いてみたらとんでもない失業率で、イタリアに次いで世界第二位(笑)。毎日のように店を訪ね歩いて3ヵ月目でようやく見つかりました。飲食店の皿洗いです」。

英語の習得も目的のひとつだった新井さんだが、その目論見も危うくなった。

「しゃべっている暇がないくらい皿がばんばん運ばれてくるわけですよ。毎日毎日無言で皿の山に向かうだけです。こりゃ困ったな…と。こんなとこでずっと過ごしていても英語なんて覚えられないぞ…と思いまして。そのうち2軒くらい隣にあったバーに出入りするようにして、いろいろ話すようにしました」。

カナダで知ったキャンプの素晴らしさ

やがて、そんな日々がキャンプとの運命的な出会いも呼び寄せることになる。

「カナダは移民の国なので中近東の人が多いんですよね。アフガニスタンとかイランとか。そういう人と親しくなって一緒に遊びました。キャンプに誘ってくれたのもそういう友だちなんです。トロントの近くにアルゴンキンっていうでっかい国立公園がありまして、そこでキャンプしたのが最初でした。トロントの周辺って地下が岩盤らしくって、湖が多いんです。アルゴンキンの中にも湖が点在していまして、すべて川でつながっています。カヌーにテントを積んで、出発点から1週間かけてそれを回ってくるわけです。川を進んでいくと、ど~んと湖に出て、その湖畔でテントを張るんですよ。カヌーやテント、釣り道具はすべてレンタルで、魚はブラックバスとかいっぱいいますから、釣って食べました。」。

そんなカナダのアウトドアライフは新井さんを感動させた。しかし、大きなアクシデントが彼らを襲ったという。

「3日めだったかな…湖畔のテントで寝ていたら、朝、外で大声が聞こえるんですよ。何か叫んでるんです。で、飛び出したら、身ぶりと大声で“すぐに水の中に入れ!”って。とにかく、すぐ湖に入れ!と。その様子がただ事ではなかったので、とりあえず湖に立ちこんで、周りを見回したら、自分たちのテントのすぐ脇に茂みがありまして、そこに見上げるような大きな茶色の熊が…。何か食べてるんですよ。びっくりしましたね。しばらくしたら立ち去ったので、急いで片付けて移動しました」。

帰国後大学に復学し、23歳で念願の貿易会社に入社した。しかし、ここでも彼の目論見が外れてしまう。

「皮革関係を扱う会社で、靴などをメインにやってました。そこで2、3年経験を積んだら独立してちっちゃな会社でも作ろうかな…なんて考えてたんです。就職のやりとりの中では“あなたは皮革部だから”って言われていて、そこは会社のメイン部門だし、貿易業務もぜんぶ覚えられるわけですよ。こりゃ、よかった…と喜んでいたら、配属されたのはスポーツ用品の部署…。実は、その会社はアメリカのスポーツ用品ブランドの輸入代理店もやっていて、どうもボクが入社する直前に担当者がひとり辞めちゃったらしいんですね。これじゃ、貿易のこと覚えられないじゃん…いやぁ、参ったなと(笑)」。

愛車はスズキの隼。これで年に何回かツーリングするのが楽しみだ。会社のバイク仲間と東北などを巡ることも。写真は、一昨年伊豆スカイラインにて。
愛車はスズキの隼。これで年に何回かツーリングするのが楽しみだ。会社のバイク仲間と東北などを巡ることも。写真は、一昨年伊豆スカイラインにて。

商品開発との出会い

海外の生産拠点に行って野球のバットやグローブ、ボールなどの出荷前の検品などに取り組む生活が2年ほど続いたある日、新井さんの人生が大きく舵を切ることになる。今につながる開発業務との出会いだ。

「その会社とスポーツブランドの契約が切れましてね、結局そこを辞めてそのスポーツブランドに移籍し、開発部に回されたんですよ。でも、どんどん貿易と離れていっちゃう(笑)。担当したのは主に野球のボールとソフトボールで、指示どおりの物をいかに作るかという仕事です。でもやっているうちに商品開発って面白いなぁ…って思うようになりました」。

開発に関わって8年を数える頃、新井さんはなんとなく物足りなさを感じ始めたという。

「単に言われた物を開発するだけではなく、マーケティングも勉強したいな…と思うようになったんです。ちょうどそのタイミングで、コールマンが開発の人材を捜している…と聞きまして。もちろんコールマンは知ってましたよ。アウトドアの一番のブランドですよね。大学の頃に仲間とBBQで使うランタンを買いに行ったことがあるんですが、ツーバーナーはすごく高かったし、テントは6万とか7万円とかしてちょっと手が出ませんでした。すごく儲かっている会社なんだろうな…というイメージを持ってたんです(笑)」。

こうして2003年にコールマン入社。マーケティングと商品開発を合わせて担当するようになる。

「マーケットの話にも加われましたし、それまで蓄えてきた商品開発の経験も活かせたので、これはいい会社に入れたなぁ…と思いました。最初に担当したのは、電気のランタンとチャコールグリル。ハードラインという系列で、金型とかを必要とする商品群です。もう一方はソフトラインという生地もの系で、テントとかファニチャーですね。ハードラインは金型など生産の準備があるので、開発進行が遅くて期間も長いんですよ。

初めの頃に手がけたのがマックスレトロランタン。日本に合わせ見栄えがよくってスペックが至れり尽くせりの商品を作ろうと…。電気ランタンでも、高機能で本当にいいものだったら高価格でも認められるんじゃないだろうかという想いだったんです。開発に2年かかりましたが、結果としてそれが間違いではないことが分かりました」。

そして今春、組織の改編によってイスやテーブルなどファニチャー関係の担当となった。新たな挑戦の始まりである。

入社当時、新井さんが手がけたマックスレトロランタン20W。日本市場に合わせ開発された電気式ランタンの初モデル。その後バリエーションが増え人気シリーズとなった
入社当時、新井さんが手がけたマックスレトロランタン20W。日本市場に合わせ開発された電気式ランタンの初モデル。その後バリエーションが増え人気シリーズとなった

クールな戦略家の素顔は…

新井さんのモノ創りは戦略的だ。マーケットやニーズを俯瞰して、次に何が求められるかを冷静に判断する。

「ボクの場合、マーケティングリサーチや営業からの情報、イベントの現場で見聞きしたものをもとに考えていくわけですが、基本は市場が何を欲しているかということ。そこに合わせた商品開発ですね」。

ここで彼は興味深い持論を語り始めた。

「売れるものを作らないといけないんですが、開発の過程でだんだん思い入れが深くなって、必要以上に商品に深入りし、その思い入れが(商品開発の)じゃまをすることがあるんです。そうなると、その商品が市場から離れてしまうことが多いですね。つまり、自分では気に入っていても、ユーザーのニーズから遠ざかっていくということです。ひとりよがりの商品ができてしまって…。“恋は盲目”じゃないですけどね(笑)。

具体的には、当初予定していた売価よりずっと高くなってしまったり、付加価値が多すぎたり、スペックが高過ぎたりということが起こります。ですから、絶えず自分が関わっている商品を客観的に見るように心がける必要があると思っています。絶対の自信を持って送り出したのに、思ったように売れなくて悩んだことも昔はあったんですが、客観的に進めるようにしてからは大きな外しがなくなりました」。

とはいえ、彼は決して商品開発という仕事を冷めた目で見ているわけではない。いや、むしろその反対だ。商品に感情面でのめり込むことを抑えているだけである。

「でも商品開発の姿勢はひとりひとりで違います。ボクの方法がどんな場合も正しいというわけではありません。深く想い入れることで成功している人もいるんです。そういう方向で成功するのは、その人の感性がとても優れていてターゲットとなる人々に合わせることができる場合だと思うんですよ。ボクはそうではないというだけです。もちろん、ターゲットに合わせたよい商品を生み出そうという想いはすごく深く持っています。ただ、その商品を個人的に好きかどうかとか、自分がこういうのを欲しいとか…感情的なものとは別なんです。

だから、ある意味で確率論ですね。さっきも言いましたけどボクは天才ではありません。いろいろなデータで裏付けられることで、“なんでこの商品を出すんだ?”っていう疑問にすべて説明することができるんです。なんとなくよさそうだから…っていうのではダメなんですよ」。

アメリカで高い評価を受けたクールスパイダープロ/L(レッド)。3段階の高さ調節ができる高機能BBQグリル
アメリカで高い評価を受けたクールスパイダープロ/L(レッド)。3段階の高さ調節ができる高機能BBQグリル

商品はシーンの脇役でいい

さて、そんなホームランバッターは、コールマンの未来をどう描いているのだろう。

「ブランドとしてはグローバル化が進んでいるわけですが、だからこそ各地域にていねいに合わせていけるような会社でありたいですね。その部分では道半ばだと思いますが、頑張っていきたいです」。

オリンピック誘致で日本流の“OMOTENASHI”が話題になったばかりだが、この国に根づくホスピタリティの文化やモノ創りへのていねいな取り組みは、世界的な評価が高まっている。

「それはありますね。顕著な例として、日本で企画された商品がアメリカ、ヨーロッパで販売されるようになっています。今年もクールスパイダーなど日本のチャコールグリルのラインナップがアメリカをはじめ、ヨーロッパやオーストラリアなどで採用されました。日本の企画や商品力、モノ創りが認められたということです。たとえば、クールスパイダープロですと、網の高さを調節できるんです。これは日本独自のアイデアで、“これはいい!”って、アメリカ本社のスタッフにもほめられました。うれしいですね」。

彼がじっくりと時間をかけて世に送り出すコールマンの商品達。最後に、どんな目でそれを眺めているのか尋ねてみた。

「ボクたちが作る商品は脇役であっていいと思っています。商品そのものが主役でなくってもいいんです。それがあることによって、場が楽しくなったり、家族や友達と一緒に楽しい時間を過ごしてもらえたらそれでいい。ウチの商品がそのお手伝いをできたり、そんな空間を作れたら…と思うんですよ」。

そう言うと、またあの照れくさそうな笑みを浮かべる。インタビューを終えて席を立つ新井さん…その後姿に、思いつきの問いを投げてみた。

―作ってみたい夢の商品ってありますか?―

「そりゃありますよ。一瞬で片付けられて、すぐ帰れるキャンプ用品。ボク自身、あの片付けが面倒くさくて苦手なんです。設営はまだいいけど撤収は疲れてるし…。それが夢ですね」。

まさに9回ダメ押しの本塁打。ホームランバッターの異名は伊達じゃなかった…。

陸前高田の仮設住宅地で開催した支援BBQイベントの一コマ。支援活動として、住民の方に火熾しレクチャーをした
陸前高田の仮設住宅地で開催した支援BBQイベントの一コマ。支援活動として、住民の方に火熾しレクチャーをした
取材と文
取材と文

三浦修

みうらしゅう

コールマンアドバイザー。日本大学農獣医学部卒。つり人社に入社後、月刊 Basser編集長、月刊つり人編集長を経て、2008年に広告制作、出版編集、企画、スタイリングなどを手がける株式会社三浦事務所設立。自称「日本一ぐうたらなキャンプ愛好家」。

1960年生まれ。千葉県市川市在住