猪狩尚美
人事総務部 コーディネーター
今回のゲストは、縁の下の力持ちとしてコールマン ジャパンを支える人事総務のコーディネーター。その素顔は、高校時代、肩に8本の鍼を打って2日で5試合を投げ抜いたソフトボールのエースピッチャーだった。
好奇心に満ち溢れた少女時代
猪狩尚美さんは福島県いわき市の出身。この自然豊かな土地で高校卒業までを過ごした。
「海もあって山もあって、川もあって田んぼもあって…外でばっかり遊んでいました。でも、山登りとかをするわけじゃなくって、道がない繁みのようなところを分け入っていくのが好きだったんです。上の方に行くと、一気に視界が広がったりするじゃないですか。それが楽しくって…」
キャンプのデビューは早かった。家族で出かけ、楽しいひと時を過ごしたという。
「父がキャンプ好きで、家の近くにもキャンプ場がありました。父が張り切って、テントを張ったり、ご飯を作ったりしたのを覚えています。外で食べるご飯が美味しかったですねぇ。今思えば普通のカレーだと思うんですよ…でも、野外っていうのが新鮮だったんでしょうね」
猪狩さんは好奇心旺盛な少女時代だった。いや、ケタ外れの好奇心だったと言っていい。それは彼女の人生をその後も支えていくことになる。
「友達が何か習い事をやっていると、すぐに“やりたい!”って(笑)。油絵も、あの道具がかっこいいなぁ…と思って、一式買ってもらったんですが、半年くらいで辞めちゃいました。もっと簡単に書けると思っていたんですけどね(笑)。兄にくっついて剣道も…でも、1年もやらなかったんじゃないかなぁ…。習字もやったし(笑)。続けていたのはピアノですね。10年くらい。英会話もやっていて、それは中学校まで続きました。
ある時、学校にオーケストラがやってきたんですけど、“フルート吹いてみたい人は?”って言ってくれて。でも、フルートって息を吹き込むだけでは音が出ないんですよね。みんなダメだったのに、私は音が出ちゃったんです。自分にはフルートの才能があるんだ!って思い込んで、家で“フルートをやりたい”って言ったんですけど、さすがにダメだと言われました。柔道も、あの道着を着たくなったし、アーチェリーにも興味があったんですけど、その頃には、“どうせ、すぐにやめちゃうんだから…”と、親に飽きっぽさを見抜かれていました(笑)」
中学校に進み打ち込んだのは、球技だった。
「なんとなくチームプレイがしたかったので、ソフトボール部に入りました。楽しかったです。チームとしての絆が深まるというか…プライベートでも一緒に遊んだりしましたし。ポジションはピッチャーとファーストでした。監督の方針で、(ピッチャーを選ぶときに)指が手首に付くかどうかを見るんです。手首の柔らかさだと思うんですけどね。で、私ともうひとりが付いちゃったんです。彼女のほうが身体が大きかったのでエース、私はファーストと兼ねることになりました。ちょっと悔しかったかな…(笑)」
高校では3年間エースとしてマウンドを守り、ソフトボールの醍醐味に魅了されていく。
「私は三振をバンバン取るタイプではなかったので、打たせて、後ろで守りを固めるメンバーがとってくれるのが気持ちよかったですね。でも、練習試合を重ねて実戦的な指導をする監督だったので、2日間で5試合、1人で投げて、肩がイッちゃったこともあって、鍼を8本くらい打ったまま試合に出たことも…。やり切ったときの達成感を知っているから続いたんでしょうね。そして、自分のことだけではなくて、チームメイトのこと…コンディションとか気持ちも一緒に考えられるようになったと思います」
とはいえ、好奇心旺盛な性格は健在だった。
「高校の時はフットサルもやっていまして、土曜は昼間にソフトの練習を終えてから、夜はフットサル(笑)。だから、授業では居眠りしていました。夢もコロコロ変わるんですよ(笑)。テレビで獣医さんをやっていると獣医になりたいなぁ…とか。テレビの特集を見ると将来の夢が変わってましたね」
人生を切り開いたオーストラリアへの旅
高校2年生の春休みに、後の人生に大きな影響を与える南半球への旅に出る。
「ずっと続けていた英会話の先生が、オーストラリアのメルボルンに連れて行ってくれたんです。海外は初めてで、すべてが新鮮でした。生の英語に初めて触れましたし、居心地がよくて、また来たい!と思ったんです」
文化の違いも大きな刺激になった。
「日本って、日本人が多いですよね(笑)。でも、オーストラリアはいろいろな人種や文化が入り混じっていたんです。バスも、ちゃんと来ないんですよ。でも、向こうはそれが普通だから、誰も怒らないんです。日本に帰ってくると、電車もきっちりしているじゃないですか。来ないと“なんで来ないの!”って怒っちゃう(笑)。オーストラリアの時間の流れ方…大らかな気持ちでいるのは、自分の心にプレッシャーがかからないというか…健康的だと思いました」
この旅では、新たな将来の夢も生まれたという。
「飛行機に乗るのも初めてだったんですね。客室乗務員の姿に憧れて、航空会社がカンタスだったので、“カンタスの客室乗務員になる!”って先生に宣言してしまいました。それからはブレず(笑)、客室乗務員になりたいと思い続けたんです」
帰国後、大学の国際学部国際関係学科に進むが、オーストラリアへの想いは心をとらえ続けていた。
「大学2年生で、またメルボルンに留学しました。それは学校のカリキュラムの一環で短期でしたが、その後、1年休学してブリスベンに行ったんです。ブリスベンを選んだのは理由があって、そこには客室乗務員の学校、トレーニングセンターがあったんです。カンタスのトレーニングでもそこを使っていたようで、実践的なトレーニングができました。卒業するときにはCertificate of Dedicationっていう奨励賞みたいなのをもらえたんです。で、もう少し在留期間が残っていたので、日本の小学校で英語を教える資格をとる学校に通いました」
しかし、カンタス航空の客室乗務員になる夢は叶わなかった。オーストラリアの永住権を持っていなければ、入社試験が受けられなかったのである。
ホテル業界で出会った人事業務の魅力
「帰国してからはやっぱり違和感がありました。あのゆったりした時間の流れが恋しかったですね。大学に戻り、ヒップホップ系のダンス部に入っていましたが、あとはバイトです。
スポーツジムのレセプションをしたり、お台場のイベント会場でカールおじさんの恰好をしたり…横浜みなとみらいのカフェでも働いていました(笑)。ある時、大阪で中東系の航空会社の試験があって受けてみたんです。最終選考まで残ることができまして、最終面接になったんですが、そこで“いつから働ける?”って聞かれました。休学期間があったので、卒業してからでないと働けない…と答えたら、不合格になってしまいました。後で学校の先生から“そんなことどうにでもなるのよ!”って怒られましたが…(笑)」
そして、彼女が選んだのはホテル業界だった。
「大学のゼミで、ホスピタリティマネージメントを学んでいたので、サービス業に就きたいと思い、西新宿の大手ホテルに就職したんです。最上階のレストランのレセプションでした。同僚、先輩にも恵まれて、毎日、刺激的で楽しかったです。でも、そのうち人事の業務に興味が湧きまして…。自分が体調を崩した時に人事の方が優しく声をかけてくれたりして、そういう支える立場っていいなぁと思いました。また、社内研修の運営もやってみたいと…。表に出る仕事も楽しいですけど、陰でサポートするのもやりがいがあるように感じたんです。そして、人事という仕事は、企業の中でとても重要だと思えたんですね。給与や福利厚生はもちろんなのですが、社員の身に何か問題が起きた時、自分の知識や経験でサポートしてあげられて解決できたらいいなぁ…と強く思うようになりました」
社員のパフォーマンスを維持する、高める、能力を充分に発揮できるように支えていきたい…そんな想いが日々膨らんでいく中で、猪狩さんはその実現に向けて歩み出す。
「どうしたらその仕事に就けるのか、経験者に聞いてみたんです。すると、現場の経験を結構積んでからでないとバックオフィスには配属されないと言われました。でも、長くかかるのはちょっと…と思いまして。まず事務能力を高めようと、特許事務所に転職したんです。そこでは、弁理士のアシスタントを務めました。海外にもお客様がたくさんいたので、書類のチェックや見積もりの作成、特許庁から来る書類の翻訳などを担当しましたが、いろいろな種類の仕事が一度に来た時に、それを効率よく進める段取りや判断が身につき、それは今も役立っています」
ずっと人々の思い出に残るブランドであってほしい…
こうして、準備を整えた彼女の目に入ったのが、コールマンの求人情報だった。まさに人事業務のスタッフを募集していたのである。
「子どもの頃、家族でキャンプした時にコールマンのランタンを使っていましたので、ビビッ!ときました(笑)。楽しそうだな…自分たちも楽しんでたし…有名なブランドだし…と、素直に思ったんです。2015年1月に入社しましたが、両親がとても喜んでくれましたね」
オーストラリアの大らかさに心を奪われた猪狩さんの目に、コールマンのオフィスはどう映ったのだろうか。
「いい人が多いなぁ…と。もうすぐ4年になるんですけどね、今まで“この人イヤだわぁ…苦手…”っていうのが1度もないんですよ。普通1人くらいいますよねぇ。インタビューだから言ってるんじゃないですよ(笑)」
その業務は多岐にわたる。アルバイトまで含めれば約200人という大所帯を支えるため、ひとり何役?という毎日だ。
「給与、評価、社会保険、健康診断から、採用、休職、復職、退職の手続きまで…部署としては人事総務なので、備品の手配なども担当します。やってみたら、思っていた以上に人と直接関わる仕事でした。もちろん、そういうことをやりたくて選んだんですけど、もっと黙々とパソコンや書類と向かい合って事務作業に取り組むのかな…と思ってたんです。
ちゃんとできていて当たり前…できなければ怒られるという仕事なので、ほんのちょっとしたことでも“ありがとう!”って言われると嬉しいですね。でも、“特別休暇って何日もらえるの?”なんて簡単な問いに答えただけで、笑顔になって喜んでもらえるんですから…この仕事を選んでよかったと思います。人事の業務って幅広くて、人材開発にも興味があります。だから、もっともっと勉強したいですし、ちょっとやそっとの年数では…(笑)」
日々のさりげない触れ合いにコールマンの社員としての歓びを感じるとも言う。
「私の仕事は、商品を開発したり、売り上げを立てるわけではありません。正直言って、ほかの業務をそれほど深く理解していないかもしれないんです。それだけに、休憩時間とかで他の部署の方と談笑したりして、仕事の内容や苦労とかを聞けると、自分もコールマンの一員だという実感が湧いて嬉しいですね。また、店頭に並んでいる商品を目にしたり、街でウチのバッグを使う人を見かけたりすると、やっぱり嬉しい…」
コールマンというブランドへの希望を尋ねると、自らの幼少時代に想いを馳せた。
「キャンプであってもBBQであっても、みんなをワクワクさせるというか……幸せにしますよね。モノでhappyにさせることってなかなかないと思うんですよ。ずっと人の思い出に残る…それを振り返った時に温かな気持ちになれる…私も子供の頃に行ったキャンプの思い出の中に、コールマンのロゴがありました。これからもそういう存在であったり、そう思ってもらえるブランドであってほしい。人々の楽しい、幸せな思い出の中に存在してほしいです」
最後に“猪狩さんって、まさに縁の下の力持ちですね?”と問いかけると、ちょっとはにかんだ後、力強い言葉が返ってきた。
「縁の下の力持ちになれているかどうか分かりませんが、そうなりたいです。とにかく、私にできることは任せて、どんどんいい物を作ったり、稼いできてください!って感じですかね」
終始、スマートな雰囲気の猪狩さんだったが、その笑顔には、肝っ玉母さん(失礼!)のような愛情が漂っていた。いや、それはコールマンを創る人々を支える誇りかもしれない。
取材と文
三浦修
みうらしゅう
コールマンアドバイザー。日本大学農獣医学部卒。つり人社に入社後、月刊 Basser編集長、月刊つり人編集長を経て、2008年に広告制作、出版編集、企画、スタイリングなどを手がける株式会社三浦事務所設立。自称「日本一ぐうたらなキャンプ愛好家」。
1960年生まれ。千葉県市川市在住