杉本剛志

オペレーションズマネジメント本部 製品保証・アフターサービスグループ 次長

杉本剛志
私の仕事はお客様に忘れ去られるのが理想…と語る杉本さん。その言葉にはブランドへの愛があった

オーラという言葉はさまざまな場所で耳にするが、個人的に、それには二通りあるような気がしている。普通、この言葉からイメージするのは、芸能人や政治家、スポーツ選手に見られる闊達で、圧倒的な迫力と熱気を感じさせるタイプ。とても魅力的だが、度が過ぎると鬱陶しくて重くなる。もうひとつは、静かでクールなのになんとなく輝いていて、気がつけばその人物の虜になっているタイプ。そう多くはないけれど、作家や評論家、編集者でこんな人物に出会うことがある。

今回、お話を伺った杉本剛志さんはまさに後者だった。笑うと目が埋もれてしまうほどの優しい顔立ち…明るいが控えめな口調で、ちょっと褒めると照れくさそうに視線を逸らせる。しかし、話の節々に揺るぎない自信がひょいっと顔を出すことがあって、その瞬間、ぐっと引き込まれるのである。

現在、彼が担当しているのは、商品開発における各種の品質管理と、それに関係する業務だ。つまり、コールマン商品の「安心と安全」を引き受けていることになる。

感性を磨いてくれた少年時代の欧米生活

杉本さんは、1970年、ニューヨーク生まれ。幼少時代、商社勤務の父親と共に欧米生活を経験している。

「1歳ちょっとで帰国し、埼玉の新座市に住んだのですが、小学校4年からロンドンへ移りました。ニューヨークは記憶がないですね。ディズニーとかも連れて行ってくれたらしいんですが…」

少年時代を過ごした埼玉は自然が豊かで、川遊びをしたり、高校球児だった父親の影響で野球を楽しんだり…と、屋外の時間が好きだった。多忙な商社生活の合間に連れて行ってくれたキャンプが忘れられないという。

「勉強は嫌いでしたが、体育や音楽は好きで…ヤマハ音楽教室にも通ってたし(笑)」

ロンドン郊外の家は庭でテントが張れるほどで、友人とキャンプを楽しんだ。

「小学校4年でイギリスに引越して、現地の公立学校に放り込まれたんですよ。土曜だけは、補習校で日本人学校に行ったんですが、平日は近所の学校。英語なんて知らないから、先生の話も全然分からないです。でも、子ども同士は、会話はおぼつかなくても数ヵ月で普通に遊んでましたね。フットボールやろうよ…なんて誘われて。あっちはスポーツといえばサッカーですから。クリケットもやりましたね」

イギリス時代の思い出。自宅庭に張ったテントで友達や弟と共に…。友人とは今でも親交があるという
イギリス時代の思い出。自宅庭に張ったテントで友達や弟と共に…。友人とは今でも親交があるという

杉本少年の心を捉えたのは、豊かな自然が残された住環境の素晴らしさだった。

「ロンドンの外れで、広い庭の先に林があって、リスとか普通にいましたが、親父が餌付けしたら、鈴を鳴らすと寄ってくるようになって…。冬にはキツネも出てきますしね。街の緑の量が全然違うんですよ。本当にきれいな町でした。イギリスの冬は暗くてどんよりして、3時くらいには暗くなります。冬は晴れると、誰でも公園に行って日に当たります。曇りが多いから太陽が恋しいんでしょうか。レジャーシートを敷いて、日光浴してるんですよ。2階建てバスも忘れられません。交差点で停まると、みんな平気で飛び乗ったり降りたりするんです。びっくりしました」

まったく異なる生活や文化。特に驚いたのが当時の若者ファッションだった。

「パンク全盛の時代でしたから、ロンドンの街に行くと、鶏のトサカみたいな頭とか、いっぱいのピアスとか。怖いなぁ…と思うこともありました。歩いていると、中国人と間違われて目が細い…とからかわれることもありましたし」

刺激に満ちた2年間の現地校生活を経て、小学校6年生から全寮制の日本人学校に進んだ杉本さん。そこには、欧州全域の日本人駐在員の子弟が集まっていた。

「寮生活は楽しかったですねぇ…イジメとかもなかったし。寮はすごい田舎にあったんですよ。周りは牧場だけで牛が歩いていて…。勉強と学校の活動以外やることがない(笑)。それでやっぱりサッカーをやってました。現地のイギリス人チームとリーグになっていて、真ん中くらい。現地の学校や地域の人々との交流は盛んで、定期的に行き来して、習字や茶道を披露したりと、日本文化を紹介しました。学園祭の出し物で、日本の城を紹介しようという話になり、裏の森から木を切ってきて畳を敷いて、城の一部屋を再現。評判になりました」

家族と過ごす時間を充分に持てる人生を…

中学3年生で帰国。閉鎖された空間での生活は一変し、さまざまな誘惑が彼を待っていた。

「いやぁ、日本は楽しいなぁ…と思いましたよ。それまでは森の中でしょ(笑)。“中学生活ってこんなに楽しいんだ!”って。この自由さ!って。イギリスの寮では、誰かが日本に帰るとなると、色紙にメッセージを書いて渡すのが流行ってたんですけど、その時のサッカー仲間が“帝京ひと筋”って書いてくれたんです。サッカーの強豪、帝京高校に行って頑張ろう!ってことで、“おう!お互い頑張ろうな!”って誓い合ったんですけど、帰国してみたら楽しいことばかりで、サッカーどころじゃない。“帝京?無理、無理”(笑)」

やがて、私立高校へ進学した杉本さんだが、この時代に漠然とした将来像が生まれてきたという。

「親父が高校2年で亡くなったんです。とにかく忙しい人で、平日はもちろん土日も(仕事からみの)ゴルフ。私たち家族と接する時間が少なかったなぁ…と。で、そういう仕事はしたくないと思うようになりました。それと、商社って正直、何やってるか分からなかったんですよ。実際には鉄を扱ってたんですけどね。とりあえず、自分の子どもに親の仕事が何なのか分かりやすい道を選ぼうと。それで、高2くらいから将来を考え始めて、ふと浮かんだんですね。レジャー、スポーツ関係はどうかな…と」

大学は、英語を活かせるということで国際経済を選択。イギリス時代に母親の影響で触れていたテニスのサークルを立ち上げ、キャンパスライフを謳歌した。しかし、このテニスが彼の人生に大きな影響を与えることになる。

「大学生活は……当時の学生そのものですよ。テニスだけではなくスキーも楽しみました。日本全国、旅もしましたね。キャンプも丹沢の河原とかで楽しんでました。大学1年の校舎が厚木で丹沢が近かったんです」

大学でテニスに打ち込んだ彼が選んだのは、世界的釣りブランドで知られる国内の大手スポーツ企業だった。釣りが中心だったが、テニスやスキーブランドも擁する点が心をとらえたらしい。

「釣り以外にもテニスラケットとかスキー板とかやってて、子どもと遊ぶきっかけにもなるじゃないですか。もちろん、テニス部門を希望していたんですが、配属されたのはスキーの営業部でした。2年間大阪勤務で、やっと本社に戻ったら、まもなくスキー部門が廃止に (笑)。それでやっとテニスの仕事ができるようになりました。ブランドというものの力、すごさを知ったのはこの時代ですね。釣りでは圧倒的な知名度なのに、スキーは全然…。でも、逆に(ブランドに頼れないので)営業力はつきました」

ここで彼は商品企画、モノ創りの楽しさを知ることになる。

「スキーからテニスに移るまでの短い間、ペンドルトンの担当をしてました。当時はあまりの人気にペンドルトン狩りなんて恐喝事件もありましたしね。私も街を歩いていたら、 “それペンドルトンですよね。いくらでも出すから譲ってください”なんて声を掛けられたり…。ある時、クリスマスに向けてテディ―ベアを作ろうという話になりまして。アメリカ本国でもやってなかったんですが、日本オリジナル企画として承認をとって……。それなりに売れて手応えを感じました」

そして、2003年10月にコールマンジャパン入社。前職での経験を買われ、プロダクトマネージャーとしての転身だった。

「びっくりしましたよ。まず、朝礼とかないですもん。夕方の終礼も。前は、まず、ラジオ体操から始まって(笑)。始業時間前だから義務じゃないはずなのにいないと怒られる(笑)。

机だって、コールマンに来たらパーテーションでひとりひとり区切られていて、夕方気がついたらみんな帰ってる。何これ?帰っていいんだ!って(笑)。外資系ってすごいなぁ…と思いました」

最初に担当したのはファニチャーだった。

「キャンプ用品の開発は初めてでしたが、モノ創りへの不安はなかったですね。楽しかったですよ。日本オリジナル企画がどんどん進んでいた時代ですので、社内で通ればなんでもやらせてもらえたんです。初めて送り出したのはアームチェアだったかな。思い出に残っているのはコンパクトキッチンですね。全部が天板の裏に収まるというアイデアを、みんなが認めてくれたのが嬉しかったんです。軽量化されたキッチンを作りたかった…それまではスチールの重いタイプでしたからね。おかげさまでロングセラーになりました」

プロダクトマネージャー時代に手掛けたコンパクトキッチンテーブル。ロングセラーになった
プロダクトマネージャー時代に手掛けたコンパクトキッチンテーブル。ロングセラーになった

イベントにはできる限り顔を出すようにしていたという杉本さんだが、ユーザーとの触れ合いの中でモノ創りのヒントがたくさん得られたという。

「びっくりすることが多かったです。想像もしていない使い方をしているのを目の当たりにしたり…。取扱い説明書を作る時のヒントにもなるんですよ。このあたりは分かりやすくキチンとしておかないと…ってね。ほかには、百円ショップで買ってきたものを上手に使っている姿が刺激になりました。みんないろいろと考えてるんだなぁ…と」

プロダクトマネージャーとしての活動は約3年。その間にはクーラースタンドのような定番化した商品もある。

「次に、ベンダーマネージメントのチームに移ったんです。これは、工場とのやりとりをする部署で、生産する工場の選定や、納期、コストなどの検討をしていました。しかし、そういう機能も含めて総合的にモノ創りをコントロールする部署がアジアにできたので、日本では品質管理に注力しようということになったわけです」

私の仕事はお客様に忘れ去られるのが理想

冒頭で触れたように、現職は品質管理。コールマンのモノ創りを厳しい目で監視する。

「プロダクトマネージャーと組んで、商品開発に関わっています。プロトタイプをチェックして、強度や材質、コールマンとしての品質基準に達しているかどうかなどを総合的に判断するんです。第三者機関を使って、検査、試験。染色生地系の色移り…などもチェックしますが、コールマン商品が使われるあらゆるシチュエーションを想定しなければなりません。ざっくりと言えば、プロダクトマネージャーはアイデアを形にして、私たちはそれをお客様に安心して使っていただけるかどうかのチェックや検討を担当します」

商品開発時代の撮影での一コマ。チームワークを大切にする杉本さんらしい笑顔だ
商品開発時代の撮影での一コマ。チームワークを大切にする杉本さんらしい笑顔だ

しかし、現在の杉本さんはその担当業務をさらに広げている。

「流山プロダクトセンターも見てるんです。ショップ以外のカスタマーサービス、修理、商品再生、倉庫管理ですね。ですから、ユーザーの声がよく聞こえてくる立場だと思います。カスタマーセンターでは、直にお客様のご意見とか、こういう商品はできないの?とかのご要望も伝わってきますし、修理を見ていれば、ここが壊れやすいよね…などもダイレクトに分かります。そういうものを次の商品開発に橋渡ししたり、継続している商品であれば改善に活かしていくのが、私の役割なのかな…と感じているんです」

そして、ブランドへの想いもひとしおだ。

「やっぱりね、たくさんの商品の中から、コールマンを選んで買っていただくわけですから、名前やバックグランドだけではなくて、品質がきちんと伴っていなければなりません。実際に “コールマンだから大丈夫だね!”なんてお客様の声を聞くと嬉しいし、もっと頑張らなくては…と思います。転職した時に、友だちに“コールマンに行くんだよ”って話したら、みんな“すげぇなぁ…”とか“いいなぁ”って言ってくれたんですよ。単に有名ということだけではなくて、アウトドアにおいては憧れであり象徴のブランドだと実感しました。すごい会社に入ったんだな…と自分でも思います。それをこれからもきちんと支えていきたいですね」

しかし、よく考えれば、安全や安心のための品質管理という仕事は表に現れず、努力が実を結んで当たり前…という役回りだ。思わず“ちょっと切ないですね”という愚問が漏れてしまう。すると、彼はあの照れくさそうな表情を見せながら口を開いた。

「そうなんです。私の仕事はお客様に忘れ去られるのが理想。そんな部署あったっけ?と言われたら本望ですし、そうなるようチームのみんなで日々がんばっています」

それは誇りに満ちた、鳥肌が立つようなひと言だった。

コールマンのスタッフや家族とプライベートでキャンプを楽しむことも多い
コールマンのスタッフや家族とプライベートでキャンプを楽しむことも多い
取材と文
取材と文

三浦修

みうらしゅう

コールマンアドバイザー。日本大学農獣医学部卒。つり人社に入社後、月刊 Basser編集長、月刊つり人編集長を経て、2008年に広告制作、出版編集、企画、スタイリングなどを手がける株式会社三浦事務所設立。自称「日本一ぐうたらなキャンプ愛好家」。

1960年生まれ。千葉県市川市在住

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